ほんとのこと

正解はありません、不正解はあります。

精神と肉体の不一致

 幼少期。精神的な成熟度合と肉体的な時間経過、この差異があまりにも悪いほうに目立つ大人が私の周りには多かったように思います。簡単に言えば幼い大人が多かったのです。

 私は小さい時からテレビ、本、パソコン、その当時出来うる範囲で様々な知識を蓄えるのが好きでした。そして自慢心を胸に隠しながら、見透かされないように、友達にその得たばかりの知識を話すのが大好きでした。大人にはそういった話はしませんでした。もちろん初めからそうだったわけではありません。

 私の両親は物事に対して、なぜそうするのがいいのか、それをすると何が起きるか、といった本質を見ようともしない知ろうともしないで、ただ何となくそういうものだからとか、昔からそう言われてきたからといった、ぼんやりとした納得のできないもので私にあれをしろ、これをしろ、あれをするなと、とにかくすべてを思い通りに動かそうとする人でした。

 真夏の暑い日、ご飯に呼ばれてリビングに向かいそのまま席に着きました。食べ始めてしばらくして、父親がトイレに立ちました。ペタペタと床に張り付くような足音が数歩なって、止まる、と同時に怒鳴り声が上がりました。私の部屋のエアコンがついていることに対してでした。エアコンをこまめに付けたり消したりするほうが電気代がかかるということは、今では当たり前に言われていますし知っている人の方が多いと思います。しかし当時そういった話があまりされていない頃でした。私はエアコンの冷房と暖房の原理を調べているときに、偶然その話も目にしていたので知っていました。父親からいくつかの人格的口撃を受け、消しに来いと言われましたが、私はご飯を食べたらすぐに部屋に戻ること、少しの時間しか空けないときに消すと余計に電気代がかかること、この二つを父親に言いました。しかし父親は人の話を聞くことが出来ない人でした。私の話を父親は軽々しく嘘だと言い、怠けたいだけ、横着したいだけだと決めつけました。私は否定しました。しかしそこに母親が入ってきて、しょうもないこと言わないで消してきなさい、と言いました。母親はいつでも父親の味方でした。私はもう諦めて部屋に戻って、そのまま本を読みました。チョコレート工場の秘密でした。ご飯も途中でしたが、とてもそんな気分ではありませんでした。飯まだ終わってないやろ、という怒鳴り声が聞こえましたが、もう私はすっかり閉じていました。

 こんなことが何回も何回もあって、私はついに両親に何も言わなくなりました。言ったところで意味がない。そう思うようになりました。怒鳴られた時にはもう完全に無視をする形でその場から離れるようになりました。そして学校の先生、無理やりやらされていた習い事の指導者、これらの中にいる本質を見ない上に話も聞かない、そして決めつけて強制しようとする人の匂いを敏感に感知するようになってしまいました。そのセンサーが必ずしも正しいとは限らないのですが、どうしても面倒だとか恐怖だとかがちらついて避けるようになってしまいました。もはや私は人の本質に触れることができなくなってしまいました。

 そして現在、老なのか、過去の出来事の積み重ねなのか、それは誰にもわかりませんが、私の知的欲求は限りなくゼロに近い状態です。私が幼少期に嫌っていた大人に染まる時がもうすぐ来てしまいそうなのです。

 しかし自慰的ではありますがこうも思います。物事の知識やその本質を追い求めることをしないのを軽蔑するのではなく、それを認識していないうえで、他人を教育してやろうという傲慢さを軽蔑するべきだと。人としての敦みはただの時間経過による経験ではなくて、どれほど深い思考を重ねてきたかに見えるもの。もしもそうだとしたら少しは生きやすくはなるのでしょうか。