ほんとのこと

正解はありません、不正解はあります。

教師として、まずは根拠を

 福岡県の美容専門学校で行われたバーベキューで、教師が火の弱まったコンロにアルコールをふりかけ炎上させ、さらにその火が生徒数人に燃え移り、うち一人が死亡するという事件が起こりました。あまりにも痛ましいことです。それと同時に、火にアルコールをふりかけるという行動を教師が行ったという事実に驚きを隠せません。

 私は、物事を指導する立場の人間は常に根拠を求めるようでなくては駄目だと考えています。今の時代、知識を得るのはとても簡単です。もちろん一定のネットリテラシーは必要ですが。しかし、その知識の根幹、なぜそうなるのかまで得ようとするには、ある程度の知識と自分なりの思考が必要です。根拠というのは知識の複合作業という一面があるからです。

 「料理のさしすせそ」というのがあります。砂糖、塩、お酢、醤油、味噌の五つの調味料の使う順番を表しています。ではなぜこの順番なのか。それは味のしみこみと香りの飛びを考慮してのことです。砂糖と塩では分子の大きさ、つまり分子量が違います。砂糖はブドウ糖と果糖が結合したショ糖の集まりです。一方塩は塩化ナトリウム、NaClですから二つの分子量の差はけた違いです。砂糖は分子が大きいので、味付けの最初の段階で使わないと食材に十分に拡散しないというわけです。お酢、醤油、味噌、の順番ですがそれぞれ香りは加熱とともに飛んでいきますが、お酢のつんとした香りは多少飛ばした方が丸くなりますし、醤油には加熱により減少する香りもあれば、代わりに増大する香りもあります。そして味噌の香りとうまみは熱による分解が著しいので、この順番は料理の基礎として妥当だと言えます。また、お酢のつんとした香りを立たせたいのならば最後に加えたり、味噌のアルコールのような香りを飛ばしたいのならば早い段階で加えたり、それぞれの料理の狙いに即して変えていくものだとも考えています。

 私のこの調味料についての考え方は、さまざまな即席の知識と自分の考え方を織り交ぜて得たものです。ですのである程度の理解は得られることに思います。しかし、もしもこれがただ漠然と、「料理のさしすせそ」は砂糖、塩、お酢、醤油、味噌の入れる順番、とだけ言われて、何故と聞いてもそういうものだと一蹴されたのならば、その知識並びにその人を信頼するのは難しいと思います。そしてその知識の拡張性はほぼゼロに近いのです。

 物事を指導する時に重要なのは、その物事への理解は当然として、さらにその知識がまた新たな知識を得るきっかけになりうるような、点ではなく線で指導することです。ですので指導者自身が頭の中で線を繋ごうとしないような人間ならば効果的な指導など出来るはずもないのです。何故それをするのか、何故そうなるのか、そういった根拠を求めない、資質のない人間が教師という立場にいたことが今回の殺人事件の発端だと考えています。

愛と恋と性

 愛とは何でしょうか。恋とは何でしょうか。私にはあまりにも大きすぎる問いで、きっと死ぬその時まで答えがわからないような気さえします。何せこれは私一人で完結する問題ではないからです。幾人もの恋と愛が重なり合ってその一欠けらがやっと見えてくるのでしょう。多種多様の恋と愛を見て、知って、感じて、それぞれ共通する核となる部分を恋や愛と呼べるんでしょうか。私にはわかりません。

 一つ私の中にはある種辞書的な定義があります。それは、恋は性的な欲求、愛は精神的な繋がり、というものです。性的な欲求といっても下品な性欲といった、ただ漫然とした自己の欲求のことを言っているのではありません。性とは単純なオスとメスといった性的記号のことで、それに伴う欲求です。生物としての遺伝子に組み込まれた本能として性に吸い込まれるそういった広い意味での性欲です。ただただいたずらにセックスがしたいと思う性欲ではありません。もちろん本能的な吸引にも最後の最後の最後にはセックスが見えているかもしれませんが。

 愛は精神的な繋がり、と言いましたがあまりにも漠然としすぎているような気がします。しかしこの繋がりという言葉が愛と恋を大きく分かつキーワードになると思うのです。私は愛というものは互いに互いを愛して初めて生まれるものだ思っています。つまり一方的に愛することは愛ではないということです。愛の向きが一方向になったその瞬間にそれは愛ではない何かになってしまうということです。互いに愛を持ち寄って初めて愛になる。どちらも揃っていなければ同じ感情でもそれは愛とは呼べない成り損ないの感情ということです。少しややこしいかもしれません。愛という状態に愛という感情を用いて定義しているのでそうなってしまっていますが、私には愛という感情を愛という状態をほかの言葉で置き換えることが出来ません。それと同じように愛にではない同じ感情にも名前を付けることはできません。私は互いに愛している状態が愛だと考えているので、繋がりという言葉を大事にしていたいと思っています。

エモいのその気味悪さ

 今更こんなことを言ってしまうのは、あまりにも類型的な、時代にフィットしていない頭の固い大人という感じがしてしまうが、やはりどうしても許せないものだ。エモいという言葉は。日本人はスマホ、ファミマ、デリヘル、ブラピ等々、長い言葉を短い言葉に縮めて言いやすくするという民族だとは思う。しかし、このエモいという言葉はこういった縮め言葉とは対照的に恐ろしく耳触りが悪いのだ。エモい。エモい。エモい。やはり気持ち悪い。その原因を少し考えてみて一つ仮説を立ててみた。それは母音の「e」とそれに続く子音の「m」それに形容詞の終始系「い」がつくこの音の繋がりが気味の悪さの正体だ、という仮説だ。

 そこでひとまずこの「エモい」という音と同じ条件の言葉をいくつか探してみた。眠い、狭い、煙い、これらが先ほどの条件に該当する言葉になるが、当然のことながら耳触りの悪さはない。一応ない言葉でも調べておこう。てまい、えむい、れむい、けみい。それほど悪い感触ではない。

 ではもう一段階条件を絞ってみようと思う。「emo」に「い」がついた言葉に限定してみる。つまりもう、エモい、けもい、せもい、てもい、ねもい、へもい、めもい、れもい、これら八語しかないわけである。これらすべての語感を口に出して味わってみる。なるほど、答えが出た。

 「れもい」なんかはむしろ透き通った心地いい感触だったし、「けもい」はもう誰かすでに使ってるんじゃないかと思うほどだ。他の語もそれほどに耳触りの悪い音ではなかった。ある一語を除いては―。

 ではその肝心な耳触りの悪いある一語とは何なのか。それは「へもい」だ。へもい。へもい。へもい。気持ち悪い。では一体なにがこの耳触りの悪さを生み出しているのか。

 「へもい」と「エモい」には共通点がある。発音の際の口の状態に注目してほしい。そう、この二語はどちらも語頭の音を唇と舌、どちらも動作させずに出しているのだ。他の語頭は舌が上あごについていたり、破裂させていたり、唇の動作を使ったりして音を出している。

 つまり動作のない音と「mo」の唇を閉じた状態から、漏らすように、じとっと開いて出す音が繋がったとき、奇妙な耳触りが生まれ不快感を覚えるさせるのだ。

 と、まあ大層な、あまり客観的とは言い難い論理に基づいて、個人的な理論を完成させたわけですが、結局のところただただエモいが嫌いなだけです。生理的に受け付けない言葉を、解析し理由付けして正当化を試みただけなのです。要領を得ない流行り言葉が嫌いなだけです。

精神と肉体の不一致

 幼少期。精神的な成熟度合と肉体的な時間経過、この差異があまりにも悪いほうに目立つ大人が私の周りには多かったように思います。簡単に言えば幼い大人が多かったのです。

 私は小さい時からテレビ、本、パソコン、その当時出来うる範囲で様々な知識を蓄えるのが好きでした。そして自慢心を胸に隠しながら、見透かされないように、友達にその得たばかりの知識を話すのが大好きでした。大人にはそういった話はしませんでした。もちろん初めからそうだったわけではありません。

 私の両親は物事に対して、なぜそうするのがいいのか、それをすると何が起きるか、といった本質を見ようともしない知ろうともしないで、ただ何となくそういうものだからとか、昔からそう言われてきたからといった、ぼんやりとした納得のできないもので私にあれをしろ、これをしろ、あれをするなと、とにかくすべてを思い通りに動かそうとする人でした。

 真夏の暑い日、ご飯に呼ばれてリビングに向かいそのまま席に着きました。食べ始めてしばらくして、父親がトイレに立ちました。ペタペタと床に張り付くような足音が数歩なって、止まる、と同時に怒鳴り声が上がりました。私の部屋のエアコンがついていることに対してでした。エアコンをこまめに付けたり消したりするほうが電気代がかかるということは、今では当たり前に言われていますし知っている人の方が多いと思います。しかし当時そういった話があまりされていない頃でした。私はエアコンの冷房と暖房の原理を調べているときに、偶然その話も目にしていたので知っていました。父親からいくつかの人格的口撃を受け、消しに来いと言われましたが、私はご飯を食べたらすぐに部屋に戻ること、少しの時間しか空けないときに消すと余計に電気代がかかること、この二つを父親に言いました。しかし父親は人の話を聞くことが出来ない人でした。私の話を父親は軽々しく嘘だと言い、怠けたいだけ、横着したいだけだと決めつけました。私は否定しました。しかしそこに母親が入ってきて、しょうもないこと言わないで消してきなさい、と言いました。母親はいつでも父親の味方でした。私はもう諦めて部屋に戻って、そのまま本を読みました。チョコレート工場の秘密でした。ご飯も途中でしたが、とてもそんな気分ではありませんでした。飯まだ終わってないやろ、という怒鳴り声が聞こえましたが、もう私はすっかり閉じていました。

 こんなことが何回も何回もあって、私はついに両親に何も言わなくなりました。言ったところで意味がない。そう思うようになりました。怒鳴られた時にはもう完全に無視をする形でその場から離れるようになりました。そして学校の先生、無理やりやらされていた習い事の指導者、これらの中にいる本質を見ない上に話も聞かない、そして決めつけて強制しようとする人の匂いを敏感に感知するようになってしまいました。そのセンサーが必ずしも正しいとは限らないのですが、どうしても面倒だとか恐怖だとかがちらついて避けるようになってしまいました。もはや私は人の本質に触れることができなくなってしまいました。

 そして現在、老なのか、過去の出来事の積み重ねなのか、それは誰にもわかりませんが、私の知的欲求は限りなくゼロに近い状態です。私が幼少期に嫌っていた大人に染まる時がもうすぐ来てしまいそうなのです。

 しかし自慰的ではありますがこうも思います。物事の知識やその本質を追い求めることをしないのを軽蔑するのではなく、それを認識していないうえで、他人を教育してやろうという傲慢さを軽蔑するべきだと。人としての敦みはただの時間経過による経験ではなくて、どれほど深い思考を重ねてきたかに見えるもの。もしもそうだとしたら少しは生きやすくはなるのでしょうか。